心の折り合いをつけることの難しさ

愛犬の旅立ち

この家で、クゥが赤ちゃんの時からずっと一緒に暮らしてきました。なのに、どうして急にいなくなってしまったんだろう、と何度も考えてしまいます。誰に聞かなくても自分が一番よく知っているはずなのに、何度もどうして?って思ってしまいます。


クゥの体の具合が悪くなって、病院に通い続けて、最期の時を看取って、お寺さんで葬儀をしてもらって、お骨を拾って、お骨と一緒に帰宅して、四十九日法要を行ってもらって・・・。
全部、自分の目で確認できているにもかかわらず、クゥがいなくなったことが信じられないのはなぜだろう。

旅立ちの日から3ヶ月以上たつのに、気持ちが当初とほとんど変わっていないことに、自分でも驚きます。遺品も整理できていませんし。トイレコーナーは2カ所作っていましたが、なんとか1つは処分しました。ですが、メインのトイレは設置したままにしています。なぜなら、クゥが家に帰ってきた時に、トイレが全部なくなっていたら困ると思って、そのままにしています。家の中があまりにも以前と変わってしまったら、クゥが帰ってきた時に驚くかな、と思って。

ですが、クゥのためと言いながら、自分のためでもありますね。今、文字にしてみて初めて気づきました。クゥがいた頃の室内の様子とガラッと変わってしまったら、なんだか耐えられないような気がして、できるだけそのままにしているのだと気づきました。

クゥが使っていたベッドは2つあるのですが、お天気のいい日は未だに毎日干しています。しかも、両方同時に干しません。なぜなら、両方とも干している時に帰ってきたら、クゥが困ると思うからです。意味のない行為だとわかっていますが、処分もできないし、片づけてしまうこともできません。

今までクゥと一緒に過ごした時間や、クゥのために使っていた時間が、プライベートの時間の中ではメインだったため、旅立ちの日を境目に、そこに時間を使うことが全部なくなって、どうすることもできないこの現実と自分の心の折り合いをつけることができないでいます。

心の折り合いって一体何だろうって思ってきました。今の自分を生きる?自分で選択する?自分で決める?どれもしっくりこないです。

一つ言えることは、心の折り合いがつかないということは、起こった出来事を受け入れることができていない、ということだと思うのです。わかっているし理解できているのに、受け入れていないとは?心って一筋縄ではいかないものですね。

心がざわざわしているのに、それをスルーしてしまうことは誰でもあると思いますが、文章にすることで、自分を俯瞰して見る訓練にもなると思いました。心の折り合いがついてきたかも、と思えるようになったら、またこのテーマで記事を書きたいと思います。

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