自分の器の大きさによっては…【希望としてそっと伝えたいこと】

愛犬の旅立ち

自分の思いを人に聞いてもらったり、ブログに記したりすることで、頭の中が整理されていく経験は誰でもあると思います。今の私はクゥのことで一定の方向からしか考えられなくて、堂々巡りから抜け出せなくなって、涙して一旦終了ということを何度も繰り返していますが、今日は話をしている途中で俯瞰して自分を見ることができたので、それについて書きたいと思います。

家族とクゥについて話をしている中で、「私は犬を飼うのは、もういいわ。」と言ったのですが、その理由の一つが「やり切ったから、もういいわ。」でした。言った時は、特に普段からそう思っていたわけではなく、逆に「あの時ああしていれば」とか「こうしていれば」とか、どんどん過去にさかのぼっていき、後悔ばかりを繰り返していました。それは心のどこかで、後悔を繰り返して詫びることがクゥに対する懺悔や供養になり、クゥに寄り添っていることになると信じていたからだと思います。

「やり切ったから。」と、その理由を話す私は、自分でもびっくりするほど流暢に説明していました。そして話をしながら、まるで他人事のように「そう、やり切ったよね。」と冷静にうなずく自分がいました。自分の中のインナーチャイルドを意識できた瞬間でもありました。

確かに私も、クゥと一緒に一生懸命でした。もちろん一番がんばったのはクゥですが、その時その時で一番いいと思うことを、私の器の最大限でやっていたと思います。だからそういう意味で悔いはない、ということになるのでしょうか。

以前このブログでご紹介した、本「Dr.高江洲のアニマルコミュニケーション【著者:高江洲 薫】」の中に、違う学びを得るために、同じ飼い主の元には生まれ変わらない、という箇所があったのですが、クゥを亡くしてまだ日が浅かったこともあり、その部分を読んだ時はかなり落胆しました。アニマルコミュニケーションに関する読書を辞めてしまう原因となった箇所ですが、その部分を今思い出しても、もう落胆して涙することはなくなりました。

今度クゥが生まれ変わって来るときは、以前うちの家族として一緒に暮らした時よりも、もっともっと幸せになれる家族に迎え入れてもらいたいと思っています。私の希望ではなく、何よりクゥの幸せを心から願っているからです。

そして私は、今の自分の器を少しづつでも大きくすることを意識して、これからを過ごしていきたいと思います。クゥがお空から見ても気付く位の大きさを目指していきたいです。そしたらクゥは、もしかしたら…。

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