愛犬の死後4ヶ月頃から始まった習慣

愛犬の旅立ち

クゥとの永遠のお別れを嘆き悲しむ毎日の中で、色んな情報にアクセスして、その中から自分がしっくりくるものだけを集めて、自然に習慣化したことがいくつかあります。今日はそのうちの一つをご紹介します。

盲目のパラリンピック選手のお話

「ボクもこのバトンを全力で届けたい!」

今までは、「目を閉じるといつでも会えるとはいえ、やっぱりそれは一種の気休めかもしれないな。」と、心の奥底にそういう考えが潜んでいたのは事実でした。でも、先日たまたま見たテレビで盲目のパラリンピックの選手のお話に、気持ちが動きました。

「一生懸命になってる時って、今に生きている時なんだよね?」

それは「一生懸命練習していると、見えないことは全然気にならないです。」とにこやかに話されているのを見て、この人なら見えていなくても確かにそうなんだろうな、と言葉通りにそうだと思いました。

目を閉じていても、目を開けていても

「姿は見えなくても、いつもそばにいるよ。」

そして翌日、ふと気が付いたのです。私はクゥがいなくなってから毎日、目を閉じて心の中でクゥの姿を見て、クゥと会話していますが、目を開けた瞬間、現実にクウの姿がないことに毎回落胆しています。それは、やっぱり見えているものが全てだということを信じているに他なりません。

「気づかれないように、そっとそばにいるよ。」

ですが私がもし、あのパラ選手のように見えないのがデフォルトだったとしたら、目を開けた瞬間毎回落胆するということができません。うまく表現できないのですが、見えることは確かに素晴らしいことですし、当たり前のことではないので見えていることに感謝していますが、見えない世界に住む方々には、私たちが見えないものが見えている、と確実に感じました。

「ボクも見えていることに感謝してたよ。」

なので、目を閉じた時には簡単にクゥに会えているのなら、目を開けていても、簡単にクウに会えるはずですよね。なぜなら心は目を開けていようが閉じていようがそんなことは関係ないのですから。そう思えた時に、自分は体を持ったまま、目を開けたまま、アクセスするだけでいつでもクゥに会えるという意味が理解できたような気がしました。

自分の意識が向かっている先を観察

「狙った所に着地するよ。」

1~2ヶ月前から、自分の意識をどのチャンネルに合わせていくかということに関心が向き始め、自分の心の状態を観察するようなりました。望まない方向に意識が向かっていることに気付いたら、ニュートラルに戻すようにしています。そして、いらない感情を手放すようにしています。これが結構気分が良くなるので、毎日行っています。マイブームとして定着しそうな予感です。

「お空からいつも見てるし、すぐ飛んで行くよ。」

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